設立から現在まで - 公益財団法人献血供給事業団

設立から現在まで

設立の経緯

昭和51年当時の緊急自動車の様子

今では当たり前の無償による献血ですが、過去には血液が売買されている時期がありました。

昭和37年当時、わが国における外科的手術に使用される保存血液の量は、年間約60万リットルに達し、このうちの99% は商業血液銀行が血液提供者から買い上げた「売血」によるものでした。血液問題に関心を持った学生たちが、売血実態調査を行い、売血追放に向けて精力的に活動をはじめました。金銭を得ることを目的に自らの血液を繰り返し売る人々の多くは、過度の採血によって健康がむしばまれていました。売血常習者は赤血球が回復しないうちに売血をすることになるため、赤血球の少ない黄色い血漿ばかり目立つようになります。その血液を輸血された患者さんが血清肝炎に感染する事例が多発したことから「黄色い血」として恐れられていました。

これらの問題は国会においても問題視され、さらに、マスコミの報道により世論の注目を浴びることになります。昭和39年8月、献血推進の閣議決定により、日本赤十字社が全国的規模で献血の推進を行うことになり、当初は3%程度の使用率であった献血が、昭和40年においては22%を占めるまでになりました。

順調に増えていく献血ですが、問題もありました。日本赤十字社は医療機関への供給ルートを持っていなかったため、献血で作られている保存血液の大部分が商業血液銀行によって売血と一緒に病院に供給されるという状況です。

献血による血液は、献血者の善意に応えるうえでも 売血と混同されることなく、独自の供給機関によって行われるべきもので、当時の献血体制において最も立ち遅れ、献血推進の運動を妨げているのが供給機関の問題でした。

そこで日本赤十字社と献血学生連盟、各界の有志によって、献血思想の普及と血液の円滑な供給のための財団法人が設立されることになりました。

これを受けて日本赤十字社と日本赤十字社東京都支部は供給専門の団体の設立にあたって必要な土地、建物、車両及び資金の提供を行い、設立発起人等関係者の努力と相まって「財団法人献血供給事業団」が設立されることになりました。

昭和41年12月に財団法人の設立総会が開催され、昭和42年1月、東京都より財団法人の設立許可を受け、翌月に仮事務所を日本赤十字社東京都支部内に開設、同年4月1日に業務を開始し、東京都内の献血による輸血用血液は献血供給事業団が供給することになりました。

これからも患者さんのために

昭和42年4月1日の午前0時、大学病院への緊急出動から献血供給事業団の業務は開始しました。当時の職員数は16名、血液を供給する車両は、緊急車両が2台、普通車両が6台の計8台でした。

その年に武蔵野支所、葛飾派出所を開設し、翌年には太田派出所、城北出張所を開設するなど急速に供給エリアが拡大したことで、人員が不足している時期もありました。

 週に3回の当直など、大変な時期もありましたが、「献血を患者さんのもとに届けたい」という職員の思いと献血血液の供給推進の熱意によって乗り越えてきました。

昭和48年には血液から作られる血漿分画製剤の供給を開始しました。国内献血製剤の自給率向上と安定供給を目標にかかげ、現在も拡販活動に取り組んでいます。

平成9年には新たな事業として東京臍帯血バンクを設立し、臍帯血移植の推進に尽力しました。その後、法の施行で臍帯血事業を取り巻く環境は大きく整備され、当初目指していた公的バンクのモデル事業も成果を上げたと結論付け、平成26年3月にその役割を終えました。16年半にわたる事業期間中に、約1,700個の臍帯血を患者さんのもとにお届けし、臍帯血事業に貢献しました。

公益法人制度改革によって、財団法人である献血供給事業団は、5年間の移行期間のうちに一般財団法人か公益財団法人へ移行することを迫られました。検討した結果、資格審査は厳しいものの私たちの業務は公益性の高い輸血用血液の供給業務であることから、公益財団法人への移行を選択しました。

平成29年に創立50周年を迎えた献血供給事業団では、さらに安全で確実、迅速な供給体制の構築のために、輸血用血液の供給業務に使用する供給管理システムを開発し、運用を開始しました。

私たちは50年以上にわたり24時間365日休むことなく、走り続けてきました。これからも、私たちは設立時の思いを大切に患者さんのために走り続けます。